1番、最初にお会いしたのは確か、2000年の秋。
まだ、妻とは熊谷と京都で遠距離恋愛していた頃。
お会いするまでは、敏腕でバリバリ仕事をこなし、少し近寄りがたいオーラがあるような人だと思っていました。
妻も一緒に初めて会食させていただいたフレンチレストランベルクールに現れた彼女は・・・
小柄でチャーミングな、目に星の輝きを持ち周囲を優しい空気に包み込む明るく照らし出すオーラを持った素敵な女性でした。
6年前に熊谷から京都に来て、5年間お世話になった㈱ワイングロッサリーの吉田妙子社長との初めての出会いの印象は、今でも鮮明に覚えています。
結婚する前に、私の妻がワイングロッサリーのショップにスタッフとして働かせていただいていたご縁で、一緒にお食事させていただく事になりました。
以来、結婚して一緒に熊谷に住んでからも、妻の里帰りにはご挨拶に寄らせていただいていましたが、いつも温かく迎え入れてくれました。
吉田社長は、もともと埼玉に育ち高校位から京都に進学し、大学時代に旦那様と知り合われご結婚なさったとお聞きしています。
旦那様のご実家が、代々四条堀川の地でご商売されていたので、ご結婚されてからも必然とご家業をお手伝いされました。
でも、大切なご主人は先に天国へ旅立たれました。
その後、吉田社長は二人の娘さんを育てながら、旦那様のお母様も見ながら事業を続けられました。
当時、ワイン専門として経営する酒屋さんが多くなかった時代。
それでも、吉田社長は亡くなった先代の社長であるご主人と決めたワイン専門で行く事を貫きました。
そしてそれが今では、沢山のお客様と私達夫婦や同じくワイングロッサリーを卒業していったスタッフ、今働いているスタッフの子達にも脈々と思いが伝わっているのでしょう。
6年前に京都に移り住む事うを決めた時も、快く私達夫婦を迎え入れてくれました。
以降、5年間に渡り、私はバーで、妻はショップの方でお世話になりました。
いつも、大きな愛情でスタッフを包み込み、困った事にも自ら矢表に立とうとします。
小柄な体に何処にそれだけの胆力があるのかと思うほどに、理不尽な事には一喝し空気を張り詰めさせる事もあれば、非常に繊細でナイーヴな面もあります。
でも、自分が大変な局面に面していても自分の事はさておき、いつもキラキラと輝く笑顔で私達を温かく見守っていてくれました。
私達が二人でお世話になる最初の時に、いつか独立をしたいと告げていました。
吉田社長は、その時は全力であなた達を応援すると言ってくれました。
その言葉どおり、私達を心のそこから全面的に応援していただております。
在職中には、自らは留守番をし、当時のスタッフほぼ全員フランス研修に行かせていただきました。
今も、これからもあの時の経験は一生の宝物です。
1800年代初頭、幼い娘を抱えながら、急死した夫の事業を継ぎ、ピュピトルとルミュアージュを発明しシャンパーニュ産業の発展、自社の拡大を実現させたニコラバルブ・クリコ・ポンサルダン。
半世紀後には、甘口シャンパーニュが主流を占めていた当時、冷涼な北限の産地でドサージュに頼らずにより熟したブドウを作る事を試み、そしてこの世紀最高のヴィンテージと称される1874年に初めて商業的に本格辛口シャンパーニュ、ポメリーブリュット74を送りだした、マダム ルイーズポメリー。
彼女もまた、旦那様に先立たれ、子供を抱えて事業を引き継ぎ事業を大きくされました。
二人とも、小柄ながら溢れるエネルギーで果敢に挑戦を続け時代を先駆された偉大なる女性達です。
そして、現在、私達の中で偉大なる女性は吉田妙子社長。
スタッフを自分の子供と同じように大きな愛で見守り、包みこみ、応援してくれるGRANDE DAME.
これからも、四条堀川のワインショップに輝く笑顔に会いにいきます。
いつまでも、お元気でいてください。