Dear Friend In Heaven

今年も祇園祭りの宵山、山鉾巡行と京都はおおいなる賑わいをみせた。

この時期になると、いつもあの日の夜の事を思い出す。

今から3年前。

まだ、私が移転する前のクープドワイングロッサリーに勤務していた頃・・。

 

 

菅野勉さんは、私が熊谷のラミデュヴァンセントジェームズに勤務していた時に知り合った。

ラミデュヴァンもまだ、立ち上げたばかりの頃でした。

住んでいるアパートから、徒歩1分位の所に住まわれていたので、ほぼ毎日いらしていただいていました。

非常に繊細な感覚の持ち主でありながら素晴らしく豊かな感性、ユーモアを沢山持ち合わせた会話のセンスと博識で、人見知りながら、仲良くなると人懐こい性格で絶えず周りの人間を楽しませようとするので、いつも周りには彼の事が大好きな人に囲まれていました。私達夫婦も大好きでお客様という関係を超えてプライヴェートでもよく一緒に遊びました。

勉さんには色々な事を教えてもらいました。

私がジャズやクラシックの興味を持ち始めたのも勉さんの影響です。

自宅にジャズ、クラシック、ロック、ポップス、ボサノヴァ、ジャンル問わず2000枚以上のCDを所有しておられていました。

私がある時ジャズに興味があると言ったら、毎週20枚づつ自宅から色々なアーティストのCDをもってきてくれました。ジャズの入門書のような本と一緒に。

たくさんのCDを借りて、自分はビルエヴァンスが1番好きである事が解りました。

そしてそれからほぼ毎日1回は、勉さんにビルエヴァンスが好きだったらこのアルバムは絶対外せないと教えてもらったワルツフォーデヴィーのアルバムを今もかけています。

本も膨大な量を所有していて、会話の内容も多岐にわたりラミで知り合った他のお客様とも渡りあえていました。

繊細な1面も併せ持っていて、心底精神も体も疲れてこられた時もありました。

お酒も飲めないほど疲労困憊していた時、ぼそっとサラトガクーラーとだけ呟き、そのノンアルコールカクテルをゆっくりと口にすすめました。

そこまで疲れているのが見えた時は、僕も黙って勉さんが究極的に癒しを求めた時聴きたがっていた矢野顕子さんのスパーフォークソングのアルバムをかけていました。アルバム1枚を聞き終えた後、一言、お勘定といい帰っていくのですが、翌日には元気よく「ども!」とドアを開けて入ってこられました。

私達が京都に移り生む事も、1番はじめに報告した人です。

「小嶋さんが京都に行ったら、絶対遊びに行くし、絶対独立してくださいね!」

と言ってくれました。

京都に移ったその年に2回も来てくれました。

2回目に来られた時は、会社の社員旅行が京都となり、ラミデュヴァンにも連れてきていただいてた上司や同僚、後輩の方と一緒に8名でいらっしゃいました。ほどなくして皆様と帰られた後、一人でまた帰って来られて、一緒に杯を重ねました。

ちょうどその時、私が京都に来て右も左も解らず祇園で働き始めた頃から、今も本当によくしていただきお世話になっているお客様のまさみさんが来られました。

勉さんを紹介し、自然に意気投合しそれから3人でクーゲルに行く事になりました。

クーゲルでもみんなで杯を交わし、着物姿の京女性と友と京都で飲めるのが本当に嬉しいといつもながらに饒舌で上機嫌の友の姿を見て嬉しく思いました。そして、小嶋さんが京都に来ても素晴らしい人に囲まれて元気に仕事をしているのを見て安心し、嬉しいと言ってくれました。

その後、まさみさんを送り、僕と勉さんは夜中の・・いや明け方の焼肉を食べに行き、名残惜しくもまたの再会を約束し、熱いハグを交わした後、タクシーに乗り込み東に走って行く姿を見送りました。

別れ際にまた、

「小嶋さん、絶対京都で独立してくださいね!」

と激励を受けて・・。

 

 

そして、今思えばこの時が生きている親友の姿を見た最後でした。

 

 

 

3年前のあの日、私はまだ移転前の1階のクープドワイングロッサリーに勤務していました。

2時少し前、お客様も引けてノーゲストだったので今日はこの辺かなと少し片づけ始めようとした時、まさみさんから電話で「これから行くねー。」とコールいただき、私も元気に「お待ちしてまーす!」と答えました。

いつも、四条花見小路の交差点を渡る位にお電話いただくので、もうあと2~3分でまさみさんがいらっしゃるその間に、そのメールがきました。

勉さんの妹さんからでした。

兄が亡くなったと・・。

 

まさみさんが入って来られた時、いらっしゃいませの言葉もままならず、電話をかけた2~3分の間の私の様子の激変ぶりに「どうしたの!?」と声をかけられ、震える手で開いたままの画面の携帯ごとまさみさんに渡しました。

妹さんが書かれたメールの画面を見て、まさみさんは勉さんが自分で逝った事を察しました。

「勉さんが、生前1番好きだったお酒はなに?」

と聞かれ、

「ワイン、ウィスキー、ビール、色んなお酒が好きだったけれど、僕が作るタンカレーベースのジンリッキーをまた飲みたいと来京の時に話してた。今はワインバーだから・・。」

すると、まさみさんがちょっと待っててと言い、外へ出て行きました。

ほどなくして帰ってきたまさみさんの腕の中にはタンカレージンとクラブソーダ、それにフレッシュライムがありました。

「連れのとこから貰って来た。これで、勉さんの分と3人分ジンリッキーつくって。」

入ってくるなり、まさみさんが言いました。

まさみさんは、クープの近所にある昔馴染みのワンラヴのマスターからいただいてきたそうです。

マスターはまさみさんの依頼を特に詳しく事情を聞かなくとも状況を察し、すぐに渡されたそうです。

久しぶりに、約3年ぶりにつくるジンリッキー。

ラミデュヴァン時代、グループの中でもカクテルを作るのがとびきり不器用だった私が何べんもつくり、それを勉さんはまた何べんもオーダーし飲んでくれました。おそらく、練習にとつきあってくれたんだと思います。

それでも、私が熊谷を離れる最後に近い時に来店された時、友情のジンリキーで乾杯しようと言い送り出してくれました。

ジンリッキーを3杯つくり、杯を重ねた後、涙がこみあげて感情が抑えられなくなってしまいました。

そこまで、つらかったならなんで連絡してくれなかったんだろう、いや、なんで俺は電話しなかったんだろう、もっと早くに察して声かけてあげられれば、電話1本するだけでも勉さんが楽になったんじゃないか・・。

勉さんに、春頃にメールをもらっていた。お客様とワイン会をして飲んだワインの名前、楽しかった様子が書かれていて、また近いうちに京都に言って小嶋さんと一緒に飲むの楽しみにしています。と締めくくられていた。

あの時、ぼくも楽しみにしているとメールで返信したけど、何で電話にしなかったんだろう?そのあとにでも連絡できたはずなのに・・。

心の中で自問と自責を繰り返す自分にまさみさんが察し言ってくれた言葉が

「先に自分で逝った人を何でもう少しがんばらなかったんだよ、死ぬくらいなら何でも出来るでしょ、とか言っちゃだめだよ。みんながみんな頑強でタフな人ばかりじゃない。先に自分で逝く人も自分の人生を精一杯生きたんだから。そう言ってしまったら、その人が自分なりに精一杯生きた人生を否定してしまう事になるから。勉さんは勉さんで自分の人生を本当に精一杯生きたんだよ。だから、先に天国で待ってて。残された自分たちはこの世でたくさんのネタを抱えてからいつかそっちに行くから、その時はまたそのネタでまた一緒に飲もうねって言ってあげて。」

まさみさんのこの言葉に救われました。

そして、この言葉を私と同じように思っている熊谷の友人に伝えなくてはと思い、東京で行われる通夜へ妻と一緒に向かいました。

通夜の後、勉さんを慕って集まった共通の友人達に会い、やはり同じようにやりきれない思いを抱えてた事を知り、まさみさんの言葉を伝えました。

通夜、告別式と勉さんを慕っていた友人、たくさんの方がいらして別れをしのびました。

 

今、勉さんとの約束が果たせ、京都の地で独立開店する事が出来た。

オープンした時、開店してまもなく、まさみさんがお祝いにいらしていただいた時、親友の廣岡夫妻が来てくれた時、先日の命日、ことあるごとに勉さんとジンリッキーで杯を交わしている。

まちがいなく、勉さんは私達の中に生きている。楽しそうかと見え、きっとすぐ近くで微笑んで見守っている。

また、そっちで勉さんと杯を重ねる日まで、こっちにいる僕らは精一杯生きて沢山のネタをつくろう。

きっと、その時は「ども!」と笑顔で迎えてくれるだろう。

 

 

 

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