雨天の友

Affinageが開店し、1年と3カ月が経ちました。

いつのまにか季節も、2回目の梅雨を迎えています。

白川には淡い光を懸命に瞬かせて舞う蛍の姿。

今年は、昨年よりも沢山の蛍が、道行く人の目を楽しませてくれた。

昨日、食事の帰り道には1~2匹ほどしか飛んでいなく、来年また会えるのを楽しみに家路についた。

 

先週の休みに、友とお蕎麦屋さんの三文銭で日本酒を傾け合いながら飲んだ。

その後、Huitでシャンパーニュでまた乾杯した後に、場所を移しレザンというフレンチレストランに行き、料理とワインを楽しんだ。

レザンは、特別な場所。

僕ら夫婦が、独立前に資金を貯める為、お給料のほとんどを貯金に回し、自由に使えるお金が全く無かった頃、友は事情を察してワインを飲ませてくれた。

あの頃、自分は精神的にもかなりつらかった時期だったが、友が招いてくれた酒肴の席に何度も心癒された。

今、こうして一つのワインを友と囲んで和気あいあいと楽しく飲める事に感謝。

雨天のつらかった時期、支えてくれた友に感謝。

 

私達夫婦には、沢山の雨天の友がいる。

埼玉にも東京にも京都にも。

雨天の友は一生の友。一生の財産。

これからも、雨天を支えてくれた友に感謝し、一緒に楽しく飲んでいきます。

その後に晴れ渡る、爽やかな青空の下でも。

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店は人なり

昔、先輩に言われた言葉。

「店は人なり。人は店なり。」

 

熊谷で仕事をしていた頃、一番初めにバー業務の事について教えてくださったShotBar ACEの渡辺藤男氏が独立されたての頃おっしゃっていた言葉。

その後、お店を任されるようになり自分で独立してからも常に頭に浮かびあがる言葉。

 

店は、やっている人間の性格や人柄もあらわす。

人もまた、店をあらわすのだろう。

企業もそうかもしれない。

経営者の理念は会社をあらわす。

 

もうすぐ、Affinageも1年。

まだまだ、洟垂れ小僧にもなれてないが少しづつ自分との距離が縮まってきた。

最初は、自分でもかなり設計に携わったはずなのに要領悪く、違う人の店ではたらいている気分だった。

毎日少しづつ、お店と対話しながら距離を縮める。

すると、手足を伸ばした所に今必要なものがすうっと手にとれる。

師の谷友典氏が、任せてくれたラミデュヴァンセントジェームズで始めたての頃、不器用な私によく言ってくれた。

5年目卒業するころ、確かにラミデュヴァンは相棒の様な存在となっていた。

京都に来てから、最初に任せていただいた1階の5坪の小さなワインバー、旧クープドワイングロッサリー。

ここは、現4階のクープドワイングロッサリーのマネージャーシェフ福村武氏がオープニングスタッフとして土台を作ってくれていたので、1年位でリズムがつかめた。

 

今、Affinageでは・・。

本当に少しづつ。

でも、毎日店に行くのが楽しい。

毎日、お店に入ると挨拶をする。

そう、高校球児がグランド入る前に挨拶するように。

帰る時も一緒。

挨拶をして帰る。

Affinageが大好き。

これからも、対話を続けながら熟成を続け変化を遂げていきたい。

変幻自在アフィナージュ。

これからもよろしく。相棒!

 

 

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LA GRANDE DAME

1番、最初にお会いしたのは確か、2000年の秋。

まだ、妻とは熊谷と京都で遠距離恋愛していた頃。

お会いするまでは、敏腕でバリバリ仕事をこなし、少し近寄りがたいオーラがあるような人だと思っていました。

妻も一緒に初めて会食させていただいたフレンチレストランベルクールに現れた彼女は・・・

 

 

小柄でチャーミングな、目に星の輝きを持ち周囲を優しい空気に包み込む明るく照らし出すオーラを持った素敵な女性でした。

 

 

6年前に熊谷から京都に来て、5年間お世話になった㈱ワイングロッサリーの吉田妙子社長との初めての出会いの印象は、今でも鮮明に覚えています。

結婚する前に、私の妻がワイングロッサリーのショップにスタッフとして働かせていただいていたご縁で、一緒にお食事させていただく事になりました。

以来、結婚して一緒に熊谷に住んでからも、妻の里帰りにはご挨拶に寄らせていただいていましたが、いつも温かく迎え入れてくれました。

吉田社長は、もともと埼玉に育ち高校位から京都に進学し、大学時代に旦那様と知り合われご結婚なさったとお聞きしています。

旦那様のご実家が、代々四条堀川の地でご商売されていたので、ご結婚されてからも必然とご家業をお手伝いされました。

 

でも、大切なご主人は先に天国へ旅立たれました。

 

その後、吉田社長は二人の娘さんを育てながら、旦那様のお母様も見ながら事業を続けられました。

当時、ワイン専門として経営する酒屋さんが多くなかった時代。

それでも、吉田社長は亡くなった先代の社長であるご主人と決めたワイン専門で行く事を貫きました。

そしてそれが今では、沢山のお客様と私達夫婦や同じくワイングロッサリーを卒業していったスタッフ、今働いているスタッフの子達にも脈々と思いが伝わっているのでしょう。

6年前に京都に移り住む事うを決めた時も、快く私達夫婦を迎え入れてくれました。

以降、5年間に渡り、私はバーで、妻はショップの方でお世話になりました。

いつも、大きな愛情でスタッフを包み込み、困った事にも自ら矢表に立とうとします。

小柄な体に何処にそれだけの胆力があるのかと思うほどに、理不尽な事には一喝し空気を張り詰めさせる事もあれば、非常に繊細でナイーヴな面もあります。

でも、自分が大変な局面に面していても自分の事はさておき、いつもキラキラと輝く笑顔で私達を温かく見守っていてくれました。

私達が二人でお世話になる最初の時に、いつか独立をしたいと告げていました。

吉田社長は、その時は全力であなた達を応援すると言ってくれました。

その言葉どおり、私達を心のそこから全面的に応援していただております。

在職中には、自らは留守番をし、当時のスタッフほぼ全員フランス研修に行かせていただきました。

今も、これからもあの時の経験は一生の宝物です。

 

 

1800年代初頭、幼い娘を抱えながら、急死した夫の事業を継ぎ、ピュピトルとルミュアージュを発明しシャンパーニュ産業の発展、自社の拡大を実現させたニコラバルブ・クリコ・ポンサルダン。

半世紀後には、甘口シャンパーニュが主流を占めていた当時、冷涼な北限の産地でドサージュに頼らずにより熟したブドウを作る事を試み、そしてこの世紀最高のヴィンテージと称される1874年に初めて商業的に本格辛口シャンパーニュ、ポメリーブリュット74を送りだした、マダム ルイーズポメリー。

彼女もまた、旦那様に先立たれ、子供を抱えて事業を引き継ぎ事業を大きくされました。

二人とも、小柄ながら溢れるエネルギーで果敢に挑戦を続け時代を先駆された偉大なる女性達です。

そして、現在、私達の中で偉大なる女性は吉田妙子社長。

スタッフを自分の子供と同じように大きな愛で見守り、包みこみ、応援してくれるGRANDE DAME.

これからも、四条堀川のワインショップに輝く笑顔に会いにいきます。

いつまでも、お元気でいてください。

 

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我が心の青森

8月初頭に故郷の青森に帰省しました。

京都は猛暑まっただ中なのに、青森は適度な湿度を含む爽やかな風が吹き、幼き日にこの風を感じながら育った事をあらためて思い出します。

青い空、青い海、青い森、空気も青く澄み渡り、夏の青森は至福の季節。

シングライクトーキングの佐藤竹善さんの歌声が頭の中で、眼前の青い空とシンクロします。

 

全線開通した東北新幹線で真新しい新青森駅に降り立ち、冬ぶりに再会する母と待ち合わせ、そのままお墓参りへ行きました。

父、父方の祖先、母方の祖先、そして幼き日に共働きをする両親の代わりに姉と僕を育ててくれた、おばちゃの墓前に参り、独立の報告と見守って頂いている感謝を伝えました。

おばちゃは、私が5歳で今の実家に引っ越す前に住んでいた合浦公園の近くに住むおばあちゃんで、ほとんど毎日のように預けられ育ててもらいました。

多分、0歳か1歳位の物心がつかない位からと思います。

幼き日の思い出は、その近くの生家の記憶より、おばちゃにおぶられ、手をひかれ行った浪打市場、毎日のように遊びに行った合浦公園、ハイカラで朝食にはいつもトーストで、一緒に砂糖とミルクをたっぷり入れてコーヒーも出してくれた事。

東の方へ引っ越し、小学校に通うようになってからもバスに乗っておばちゃに会いに行き、夏休みの大半をおばちゃの家に泊まり合浦公園の海水浴場へ泳ぎに出かけました。

おばちゃが本当の祖母ではないと理解したのは、多分小学校高学年になってからだったと思います。

その位、本当の孫と同じように接し、育ててくれました。

幼き日、兄弟のように育った5つ年下のおばちゃの本当の孫、やっちゃんという男の子がいました。

赤ちゃんの頃から知っていたので、弟のように可愛くて、よく一緒に遊んでいました。

おばちゃの晩年、やっちゃんを僕と勘違いし、「ゆき、よぐきたなあ。」と言っていたそうです。

やっちゃんも僕のふりをして接してくれたそうです。

 

お墓参りが済み、実家へ帰り久しぶりの夏の実家の香りを味わいました。

ここ最近、お正月の冬には毎回帰省していたのですが、夏に帰るのは本当に久しぶりです。

家から5分の海岸へ、妻を連れて散歩に行きました。

冬の寒風吹きすさぶ海しか見せてなかったので、夏の穏やかな陸奥湾を見て妻も非常に感激していました。テトラポットを、忍者ごっこと称して遊んでいた幼少の頃を思い出し、久しぶりに飛び跳ねて遊びました。

 

次の日、ランチにポミエさんというフランス料理店母と妻と一緒に出かけました。

私と妻がつきあって初めて訪れ、その後も妻の帰省で帰った時、京都に来てからも寄せてもらっている大好きな京都市内のレストラン、ベルクールさんで働いた経験を持つシェフがされているお店です。

青森の食材をしっかりとフレンチの技法で提供する素晴らしいレストランです。

これからまた、実家に帰るのが楽しみになりました。

 

その後、市内の百貨店に働く姉を訪ね冬に帰省した時ゆっくり一緒にご飯食べようねと約束しました。

 

そして、その夜は妻に是非一度見てもらいたかったねぶたに出かけました。

1度、ねぶた祭りの迫力を見せたいと思っていました。

私も、色気づく中学生位からはハネトとして参加していたので、沿道で見るのは小学生以来です。

大太鼓の腹の附に響く力強い音、、リフレインするねぶたのメロディを高らかに歌い上げる笛の音、そして「ラッセラー、ラッセラ」とお囃子方とハネトの掛け声、ハネトが乱舞する度に奏でる鈴の音がはじめ小さくそれが段々近づき大きくなり迫りくると、体中の血液が湧きあがってくるのが解ります。

今か今かとねぶたの山車を待つ期待感、そして、闇夜に浮かび上がる巨大で勇壮なねぶたの姿にテンションはマックスを迎えます。

そして、見てるとあのハネトの輪の中に加わりたくなる。

次に来たら、やはり跳ねようと思いました。

前の方に、3歳位の男の子を肩車して見ている親子がいました。

私も、子供のころに父に肩車をしてねぶたを見た事を思い出し、懐かしく思い出されました。

 

 

3日間だけの夏休みはあっという間に過ぎ、翌日は京都に帰る日。

また、冬のお正月に帰省する日を楽しみに、青森を後にしました。

 

 

心の中に、ずっと息づく青森のDNA。

離れたからこそ、感じる私のルーツ。

今も体中を駆け巡り生命を持つ。

遠く離れた地でも、津軽のじょっぱり魂を心に根付かせて。

 

 

 

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Dear Friend In Heaven

今年も祇園祭りの宵山、山鉾巡行と京都はおおいなる賑わいをみせた。

この時期になると、いつもあの日の夜の事を思い出す。

今から3年前。

まだ、私が移転する前のクープドワイングロッサリーに勤務していた頃・・。

 

 

菅野勉さんは、私が熊谷のラミデュヴァンセントジェームズに勤務していた時に知り合った。

ラミデュヴァンもまだ、立ち上げたばかりの頃でした。

住んでいるアパートから、徒歩1分位の所に住まわれていたので、ほぼ毎日いらしていただいていました。

非常に繊細な感覚の持ち主でありながら素晴らしく豊かな感性、ユーモアを沢山持ち合わせた会話のセンスと博識で、人見知りながら、仲良くなると人懐こい性格で絶えず周りの人間を楽しませようとするので、いつも周りには彼の事が大好きな人に囲まれていました。私達夫婦も大好きでお客様という関係を超えてプライヴェートでもよく一緒に遊びました。

勉さんには色々な事を教えてもらいました。

私がジャズやクラシックの興味を持ち始めたのも勉さんの影響です。

自宅にジャズ、クラシック、ロック、ポップス、ボサノヴァ、ジャンル問わず2000枚以上のCDを所有しておられていました。

私がある時ジャズに興味があると言ったら、毎週20枚づつ自宅から色々なアーティストのCDをもってきてくれました。ジャズの入門書のような本と一緒に。

たくさんのCDを借りて、自分はビルエヴァンスが1番好きである事が解りました。

そしてそれからほぼ毎日1回は、勉さんにビルエヴァンスが好きだったらこのアルバムは絶対外せないと教えてもらったワルツフォーデヴィーのアルバムを今もかけています。

本も膨大な量を所有していて、会話の内容も多岐にわたりラミで知り合った他のお客様とも渡りあえていました。

繊細な1面も併せ持っていて、心底精神も体も疲れてこられた時もありました。

お酒も飲めないほど疲労困憊していた時、ぼそっとサラトガクーラーとだけ呟き、そのノンアルコールカクテルをゆっくりと口にすすめました。

そこまで疲れているのが見えた時は、僕も黙って勉さんが究極的に癒しを求めた時聴きたがっていた矢野顕子さんのスパーフォークソングのアルバムをかけていました。アルバム1枚を聞き終えた後、一言、お勘定といい帰っていくのですが、翌日には元気よく「ども!」とドアを開けて入ってこられました。

私達が京都に移り生む事も、1番はじめに報告した人です。

「小嶋さんが京都に行ったら、絶対遊びに行くし、絶対独立してくださいね!」

と言ってくれました。

京都に移ったその年に2回も来てくれました。

2回目に来られた時は、会社の社員旅行が京都となり、ラミデュヴァンにも連れてきていただいてた上司や同僚、後輩の方と一緒に8名でいらっしゃいました。ほどなくして皆様と帰られた後、一人でまた帰って来られて、一緒に杯を重ねました。

ちょうどその時、私が京都に来て右も左も解らず祇園で働き始めた頃から、今も本当によくしていただきお世話になっているお客様のまさみさんが来られました。

勉さんを紹介し、自然に意気投合しそれから3人でクーゲルに行く事になりました。

クーゲルでもみんなで杯を交わし、着物姿の京女性と友と京都で飲めるのが本当に嬉しいといつもながらに饒舌で上機嫌の友の姿を見て嬉しく思いました。そして、小嶋さんが京都に来ても素晴らしい人に囲まれて元気に仕事をしているのを見て安心し、嬉しいと言ってくれました。

その後、まさみさんを送り、僕と勉さんは夜中の・・いや明け方の焼肉を食べに行き、名残惜しくもまたの再会を約束し、熱いハグを交わした後、タクシーに乗り込み東に走って行く姿を見送りました。

別れ際にまた、

「小嶋さん、絶対京都で独立してくださいね!」

と激励を受けて・・。

 

 

そして、今思えばこの時が生きている親友の姿を見た最後でした。

 

 

 

3年前のあの日、私はまだ移転前の1階のクープドワイングロッサリーに勤務していました。

2時少し前、お客様も引けてノーゲストだったので今日はこの辺かなと少し片づけ始めようとした時、まさみさんから電話で「これから行くねー。」とコールいただき、私も元気に「お待ちしてまーす!」と答えました。

いつも、四条花見小路の交差点を渡る位にお電話いただくので、もうあと2~3分でまさみさんがいらっしゃるその間に、そのメールがきました。

勉さんの妹さんからでした。

兄が亡くなったと・・。

 

まさみさんが入って来られた時、いらっしゃいませの言葉もままならず、電話をかけた2~3分の間の私の様子の激変ぶりに「どうしたの!?」と声をかけられ、震える手で開いたままの画面の携帯ごとまさみさんに渡しました。

妹さんが書かれたメールの画面を見て、まさみさんは勉さんが自分で逝った事を察しました。

「勉さんが、生前1番好きだったお酒はなに?」

と聞かれ、

「ワイン、ウィスキー、ビール、色んなお酒が好きだったけれど、僕が作るタンカレーベースのジンリッキーをまた飲みたいと来京の時に話してた。今はワインバーだから・・。」

すると、まさみさんがちょっと待っててと言い、外へ出て行きました。

ほどなくして帰ってきたまさみさんの腕の中にはタンカレージンとクラブソーダ、それにフレッシュライムがありました。

「連れのとこから貰って来た。これで、勉さんの分と3人分ジンリッキーつくって。」

入ってくるなり、まさみさんが言いました。

まさみさんは、クープの近所にある昔馴染みのワンラヴのマスターからいただいてきたそうです。

マスターはまさみさんの依頼を特に詳しく事情を聞かなくとも状況を察し、すぐに渡されたそうです。

久しぶりに、約3年ぶりにつくるジンリッキー。

ラミデュヴァン時代、グループの中でもカクテルを作るのがとびきり不器用だった私が何べんもつくり、それを勉さんはまた何べんもオーダーし飲んでくれました。おそらく、練習にとつきあってくれたんだと思います。

それでも、私が熊谷を離れる最後に近い時に来店された時、友情のジンリキーで乾杯しようと言い送り出してくれました。

ジンリッキーを3杯つくり、杯を重ねた後、涙がこみあげて感情が抑えられなくなってしまいました。

そこまで、つらかったならなんで連絡してくれなかったんだろう、いや、なんで俺は電話しなかったんだろう、もっと早くに察して声かけてあげられれば、電話1本するだけでも勉さんが楽になったんじゃないか・・。

勉さんに、春頃にメールをもらっていた。お客様とワイン会をして飲んだワインの名前、楽しかった様子が書かれていて、また近いうちに京都に言って小嶋さんと一緒に飲むの楽しみにしています。と締めくくられていた。

あの時、ぼくも楽しみにしているとメールで返信したけど、何で電話にしなかったんだろう?そのあとにでも連絡できたはずなのに・・。

心の中で自問と自責を繰り返す自分にまさみさんが察し言ってくれた言葉が

「先に自分で逝った人を何でもう少しがんばらなかったんだよ、死ぬくらいなら何でも出来るでしょ、とか言っちゃだめだよ。みんながみんな頑強でタフな人ばかりじゃない。先に自分で逝く人も自分の人生を精一杯生きたんだから。そう言ってしまったら、その人が自分なりに精一杯生きた人生を否定してしまう事になるから。勉さんは勉さんで自分の人生を本当に精一杯生きたんだよ。だから、先に天国で待ってて。残された自分たちはこの世でたくさんのネタを抱えてからいつかそっちに行くから、その時はまたそのネタでまた一緒に飲もうねって言ってあげて。」

まさみさんのこの言葉に救われました。

そして、この言葉を私と同じように思っている熊谷の友人に伝えなくてはと思い、東京で行われる通夜へ妻と一緒に向かいました。

通夜の後、勉さんを慕って集まった共通の友人達に会い、やはり同じようにやりきれない思いを抱えてた事を知り、まさみさんの言葉を伝えました。

通夜、告別式と勉さんを慕っていた友人、たくさんの方がいらして別れをしのびました。

 

今、勉さんとの約束が果たせ、京都の地で独立開店する事が出来た。

オープンした時、開店してまもなく、まさみさんがお祝いにいらしていただいた時、親友の廣岡夫妻が来てくれた時、先日の命日、ことあるごとに勉さんとジンリッキーで杯を交わしている。

まちがいなく、勉さんは私達の中に生きている。楽しそうかと見え、きっとすぐ近くで微笑んで見守っている。

また、そっちで勉さんと杯を重ねる日まで、こっちにいる僕らは精一杯生きて沢山のネタをつくろう。

きっと、その時は「ども!」と笑顔で迎えてくれるだろう。

 

 

 

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魂のカウンター

独立したら、1枚板のカウンターで仕事をするのが、夢でした。

今、最高の相棒ともいえる素晴らしいカウンターと一緒に仕事をしている事を幸せに思います。

そして、この素晴らしい相棒と出会う為にご尽力をくださった方に感謝します。

 

独立の為に、物件を探していた時にも1枚板が入る事を前提に探していました。

そうすると、1番自然に搬入出来るのは1階なのですが、クレーンで運ぶ事も考え、条件があえば上の階も考えていました。

初めて、今のアフィナージュの物件を見させていただいた時、前に入られてたお店はカウンターを挟んでお客様と店主側の向きが今と逆向きでした。その状態では、お客様を背面から迎える事となり、不自然さを感じずにはいられませんでした。

客席側にずっと立って考えていた時に、向きを逆にすれば自然なんじゃないかとひらめきました。

そうすると、自分がやりたいと思っていたお店のイメージに広さもちょうどいい事に気付きました。

大分、北側ですが花見小路に面していますし、1階の物件は中々無いと思いここにする事に決めました。

カウンターの材質は、アフリカの木でブビンガと決めていました。私が埼玉熊谷時代、ラミデュヴァンセントジェームズがそうだったから。

ラミデュヴァンセントジェームズを施工してくださったオカトミの岡田社長がお店を渡す時に「小嶋君、このカウンターを5年後にもっと良くするのは小嶋君次第だよ。」と言われました。

私はその時何を言ってるのか解りませんでした。カウンターが良くなるってどういう事・・。

その答えは5年後に解る事となりました。

日々のカウンターのふきあげと、定期的なナチュラルオイルでのワックスがけ。これを繰り返していくとじわじわだんだんとカウンターが木光りを増してきて、凄みとオーラを増していくのです。

また、身近に素晴らしいお手本がおりました。師匠の谷オーナーの店、1号店のバーセントジェームズのカウンターがラミデュヴァンに先行し5年経っていたので、すでに木光りを増し素晴らしい仕上がりになっていたからです。

1号店は、アサメラという木をつかっていました。ブビンガよりもう少し白っぽいのですが、この木も硬くていい木です。

最初、1号店のカウンターと渡されたばかりのラミデュヴァンのカウンターがあまりにも違うので、どうしてだろうと疑問でした。その事は谷オーナーがすでに日々毎日の掃除やワックスがけを根気よく続けていく事の重要さを身をもって教えてくださっていたのです。

今回、アフィナージュのカウウンターを購入するにあたって、ラミデュヴァンセントジェームズのお客様でもあり、またラミデュヴァンにカウンターを納めた15年来の友人、栗島木材の栗田社長にお願いしました。

栗田社長は、私がラミデュヴァンを任されていた時もずっとお客様でいらしていただいたので、私がどんな板を望んでいるか解ってもらえるだろうと思ったからです。

アフィナージュは1階の物件ではあったのですが、入り口が花見小路から少し斜め奥にある為、5メートルの1枚板が搬入できるかどうか、最後まで解りませんでした。物件は、工事着工寸前まで前のお店さんのままで、どうしても入らなければ半分に切り継ぐ事もしょうがないかと思っていました。どちらにしても、1枚の板だったんだから・・と自分に言い聞かせ・・。CADの計算上では入ると言ってたのですが、スケルトンにするまで本当に確信が持てない状況でした。

設計施工は私が、以前勤務していたクープドワイングロッサリーの1階の時のお店から来店していただいていたサカヰヤの中出社長にお願いしました。中出社長は、1階のクープも4階に移転してからもずっときていただいていて、ちょうど4階に移転したころにご自分で独立をされました。

中出社長とは、歳も一つ違いで私が任されていたお店を両方とも見て気に入っていただてたので、ずっと長いお付き合いが出来ると確信していました。

そして、中出社長の相棒で高校からの同級生でもあった亀井さんがアフィナージュの設計施工を取り仕切りました。亀井さんも1階のクープに来ていただいた事があり、みなご縁を感じていました。亀井さんとの打ち合わせは、本当に細部にまで渡り材質の一つ一つまでサンプルを出していただいて、施工途中であっても棚の高さを私の身長と合わせ変更したり、常に最善をつくしていただきました。これほどまでに建築の仕事を愛してる人は中々いないなと思いました。

物件のスケルトン工事の前日、亀井さんが5メートルのカウンターと同じ寸法の模擬板をつくってくれました。幅も厚みも一緒で。そして、空っぽとなった物件にするりと入った時、嬉しさと安堵感と同時にここまでしてくれた亀井さんに感謝しました。

いよいよカウンターが搬入される日、朝8時半に友人の栗田社長が熊谷からわざわざ来てくれました。京都が好きで私がこっちに移ってからも時々クープにも会いに来てくれてたのですが、約3年ぶりに会う友人の姿は、以前より風格と貫録がつきつつも、昔と変わらない丁寧な語り口に懐かしさより、ついこの前会っていたような親近の思いがこみ上げました。

かたい握手で再会の喜びを確かめ合い、千葉で見つけた相棒となるカウンターが積まれた大型トラックを共に待ちました。

トラックは、栗田社長が手配した会社の社長さんが自らハンドルを握り、京都まで大事に運んで来てくれました。

大事に大事に梱包されたカウンターを栗田社長が少しだけめくり木肌を見せていただいた時、涙がこみ上げてきました。

パソコンや携帯で画像を送っていただいていたのですが、予想以上に美しかったからです。

よく、遠いアフリカの地から関東を経て京都まで来てくれた、ありがとうと感謝をのべました。

いよいよ搬入。

搬入の前、栗田社長が清めの日本酒と塩を振りまくその姿は凛とし美しく、神々しくさえありました。

そして、1トンはあろうかというカウンターを中出社長と亀井さん、大工さん2人、運転してきてくださった運送会社の社長さん、栗田社長と私、7人で運びこみました。

想像以上の重さに、途中途中で馬をかませながら、やっとの事で搬入する事があできました。多分一生忘れ得ない重さになりました。

その後、栗田社長と昼食を共にし、またすぐに仕事で関東に戻らなければいけなかったので、絶対にじっくり時間をかけ素晴らしいカウンターに育てる事を約束し、そして本当に素晴らしいカウンターを見つけてくださった事のお礼をいい、また再会する時を楽しみに別れました。

今回はカウンターは面取りだけして全く最初のワックスもかけていない状態で搬入してもらったので、最初のかけかたはラミデュヴァンを施工してくれたオカトミの岡田社長にやり方を聞き、自分でやりました。

こころよく、教えてくださった岡田社長は広島で出張のお仕事の後、アフィナージュオープンしてから途中立ち寄ってくれました。

そして、いいカウンターだねと褒めて頂きました。

私も、独立をした時、1枚板でどうしても仕事がしたかったのは、10年前に岡田社長が言ってくれたあの言葉があったからだと伝える事が出来ました。

このカウンターと出会う為に、色々な方のご尽力、そして思いが詰まっている、まさに魂のカウンターだと思います。

 

今、アフィナージュをオープンしてから4カ月が経ち、少しづつもカウンターが育ってきていると感じます。

私が熊谷時代に勤務していたラミデュヴァンセントジェームズでは、今、店長で頑張っている東森君が6メートル80センチのブビンガを日々育てています。10年を超えてすばらしい風合いを醸していると思います。

京都のクープドワイングロッサリーでは、今、店長で頑張っている鈴池君と高須賀君ががんばっています。クープではワインの色がより映えるように少し白さのあるアサメラの木を使用しました。   7メートル40センチの1枚板はまた圧巻で4階でしたのでクレーンで運びこみました。私も辞めてから遊びに行くたびに、いい風合いのカウンターに仕上がってきているので、二人頑張ってるなあといつも思います。クープでは私が辞める1年位前からは、私はワックスがけさぼっていて、日々の掃除も鈴池君がしていたので、実質彼がここのカウンターを育てています。もうすぐ3年を迎え実にいい風合いになってきました。

 

これからじっくりと、カウンターをアフィナージュさせて、お越しいただくお客様を10年、20年、 30年とお迎えするのが私の目標です。

その頃のカウンターがどう風格を出しているか楽しみです。

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二人の師匠

師匠は二人いるといいといつか、あるお客様がおっしゃっていた。

違う分野の事でもそれぞれに聞く事が出来るからということだった。

私には、師匠と心に思う方が二人います。

京都には山の手倶楽部顧問、栁忠志先生。

埼玉熊谷にはバーセントジェームズ代表、谷知典氏。

栁先生には、今から11年前に初めてお会いしました。

元々、妻が栁先生の授業を受けてワインアドヴァイザーの試験に合格したご縁もあり、当時、埼玉熊谷でバーを任される事が決まっていながら、すっかり自信をなくしていた私を連れて行ってくれました。

その時に、栁先生にいただいた言葉に勇気をいただいた言葉は

「どんなワインにも舞台に出る瞬間がある。最高の舞台に出してあげるのがソムリエの仕事。」

私には、ずっとその言葉が心に焼き付いて離れない言葉です。

また自分自身に置き換えて考える事もあり、サーヴする上でもいつも考えさせる場面が来る言葉でした。

初めて会ったのに沢山のアドヴァイスをいただき、帰り際遠く離れた曲がり角まで見送っていただいた光景が忘れられず、熊谷でバーを任された時にはどんなに忙しくてもドアまでは必ずお見送りをしようと心に決めました。

その後栁先生には2007年1月に再会する事ができました。

私が働いていた前職 ワイングロッサリーの吉田妙子社長が1年間、私を含め六角のワインバーの福村シェフと岡田ソムリエと一緒にワインとサーヴィスの授業を受けさせていただきました。

その1年間にも数々の珠玉の言葉をいただき、今の私の根幹を成す所となっています。

1番圧巻だったのが、1年間の授業終了のご褒美に、栁先生が主催する山の手倶楽部に会員である吉田社長に3人連れて行っていただいた事です。

あの日の光景、そして栁先生にはの一挙手一投足、食事が始まる前から食事が終わり帰るまで夢のような体験でした。

シャンパーニュのボワイエで受けたアペリティフからディジェスティフまで、楽しめたあの体験と匹敵する1日でした。

先生の所は基本的に1日1組なのでそれ以上かもしれません。

真の意味の贅沢、心遣い、そして栁先生の包み込むようでしなやかで美しいサーヴィスは今もずっと自分の理想です。

 

2000年9月に埼玉熊谷市でラミデュヴァンセントジェームズを任される事となり、2006年1月まで勤めさせていただきました。

その時のオーナーが今は、セントジェームズ企画代表の谷知典さんです。

バーを営んでいく事の一番大事な事を教えていただきました。

一番重要なのは、毎日の掃除でありそれが、ミリ単位の積み重ねとなって大きな力になると何度となく教わりました。

カクテルの作り方も自ら率先し教えてくれて、他の店舗のバーテンダーにも惜しげなく一緒に勉強会をしたりもしました。

何度か、オフの時に妻と飲みに行き、満席時に一人でオーダーを次々とこなしカクテルを作っていく様は本当に見事でした。

非常にキレがあり、日本刀のように鋭い動作で空気を集め、的確にサーヴする光景が今も目に焼き付いています。

また、カウンターのワックスを自らかけてお店を育てていく事も谷さんから教わりました。

2009年の春に谷さんが現場に出られていたバーセントジェームズにごあいさつに行った時、13年目にさしかかろうといている店内が凄みと重厚感を増していました。

特にカウンターが年月の他に、毎日ふき掃除を続けてきたからこそ出せる風格に満ち溢れて、感動しました。その後に行った私が働いていたラミデュヴァンセントジェームズも後を受け継ぎ、独自の世界を築き、熊谷で愛されている東森正博君が頑張っていて、ここの1枚板のブビンガのカウンターも素晴らしく風格が出てきていました。

ラミデュヴァンセントジェームズでの5年間は、間違いなく私の根幹をつくっています。

 

二人の師匠からいただいた言葉、珠玉の体験はこれからもこの仕事をずっと続けていく上でかけがえのない財産です。

お二人に感謝し、まだまだ未熟な自分を反省し、これからもいつもゼロ地点からのスタートと思い頑張っていきます。

 

 

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KRUGセミナー

5月11日水曜日にクーゲルさんで営業前の早い時間に当主オリヴィエさんを交えての、試飲セミナーがありました。

グランキュヴェとクロデュメニル、そしてロゼ。

あらためて感じた事は、グランキュヴェは交響曲であり、クロデュメニルは一流のプレイヤーによるソナタであると感じました。

グランキュヴェがサーヴされていた時、ちょうどBGMがラフマニノフの交響曲第2番の第4楽章が流れていて、クロデュメニルはがサーヴされる時、ピアノソナタに変わりました。

さすが、西田さんの演出かなと思い、抜群のタイミングでした。

グランキュヴェは、若いキュヴェと古いワイン、25か所のヴィレッジ、250種類のワインから織りなすオーケストラ。

4か月に渡る1000回を重ねるテイスティングというのも、徹底したリハを重ねる指揮者とフィルハーモニーの関係に似ている。

10年前にKRUGを訪ねた時にグランキュヴェはノンヴィンテージではなく、マルチヴィンテージだと言っていたのが思い出されました。

対してクロデュメニルはメニルシュールオジェの6haの畑のさらに最良の区画、葡萄、そして、優良年しかつくらないという徹底ぶり。

選び抜かれた者しかそのステージに経てない、トップキュヴェ。

どちらも考え抜かれ、永きに渡る経験から得られたフィロソフィーであると感じました。

音楽を聞くときに、ソナタがいいか交響曲がいいか優劣をつけられないように、どちらも素晴らしい。

グランキュヴェはドライアプリコットやマーマレード、グランマルニエ、ローストしたナッツ、アーモンドの香りも出てきます。

円熟した味わいで低音域でのバランスも良く、音楽でたとえるなら、ベートーヴェンの交響曲第4番かなと私は思います。

クロデュメニルは98というヴィンテージでありながら、まだ若々しさも感じ、若葉のような清々しい青葉のような香りもありながら、ヘーゼルナッツやブリュレのようなメニル特有の香りもでてきています。

味わいが、ソリッドで日本刀のような切れ味の鋭い酸がありながら、強烈に野太い厚みのあるアタックという相矛盾しながら、余韻が恐ろしいほど長く続きます。

少し狂気さえ感じさせながら、素晴らしい疾走感で聴衆をぐいぐい引っ張っていく絶頂期のホロヴィッツやグレングールドの演奏を思いました。

ロゼもKRUGだからこそ実現できる味わいの構築で、素晴らしいシャンパーニュでした。

あらためてKRUGは1流のメゾンであると確信しました。

毎月9のつく日はクーゲルさんで、KRUGのグランキュヴェがグラスで飲めるそうです。

また、プライヴェートで飲みにいこう♪

 

 

 

 

 

 

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親友夫妻の来京

5月3日に東京から親友の廣岡夫妻が会いに来てくれました。

廣岡夫妻は、私が熊谷のラミデュヴァンセントジェームズに勤務していた時にお客様で来ていただいていて友人になった夫妻です。

私達が5年前に京都に移り住み、ワイイングロッサリーにお世話になってからも、定期的に会いに来てくれていました。

今回は、ご主人ののりちゃんが本当に忙しい中を何とか仕事をやりくりして休みをとったそうです。

5月3日は、火曜日でお店は定休日でしたので、お昼から観光と食事を私の妻も一緒に楽しもうと言う事になりました。

午後の12時位に待ち合わせをして、GWでも比較的空いていて穴場的存在の真如堂へ。

ここの新緑の楓越しに見る三重塔の美しさは、この時期にしか味わえない特権です。

もちろん、紅葉の時期にもみじ越しに見る三重塔もうつくしいのですが、新緑の季節は清々しい空気と清冽な新しい生命力に満ち溢れた香りを楽しむ事ができます。

各々で写真を撮った後は、お堂の中へ進み説明を受けた後、釈迦涅槃の庭へ。

石組でお釈迦様の涅槃の様子を表し、大文字山を借景とした素晴らしいお庭です。

その後、フュメさんのGW特別企画たこ焼きバーへ。

師匠の柳先生もいらしてて、ご挨拶と夫妻を紹介できました。

外側かりっと中ふわのたこ焼きにカヴァ、白ワイン、赤ワイン(アンジューガメイが美味しかったあ)と

昼飲みたこ焼きマリアージュを堪能しました。

もう少し、楽しみたい所をがまんしつつ、一同哲学の道をゆっくり散歩しながら、二人が待望の我がアフィナージュへ。

私達も二人にお店を是非見てほしかったので、念願がかないました。

ずっと、熊谷に居た時から応援し続けてくれ励ましてくれた二人でした。

オープンの時にも東京と山梨でそれぞれに地震に遭い帰れないでいるのに、「せっかくオープンなのにおめでとうって電話できなくてごめんね。それよりゆっきーの実家は大丈夫?」と逆に心配してくれた心やさしい友と、独立を果たした店で杯を重ねられる事は、幸せの極致でありこの仕事を続けてきて本当によかったと思える瞬間でした。

私達夫妻と廣岡夫妻の、いや熊谷時代にみんなのアイドルであり親友だった勉さんもきっとこの時は天国から僕たちの所に遊びに来てると思い、グラスを5つ、ロゼシャンパーニュで乾杯しました。

熊谷時代、京都に移り住むことを一番初めに報告し、「小嶋さん、絶対京都で独立してね。絶対行きますから!」と言ってくれた勉さんとの約束も果たせたかな。

二人が大好きだった、レッドアイも生ビール導入したことで出すことが出来、のりちゃんとみゆきちゃんの「これだよ、これこれ!」という声を聞き嬉しく思いました。

次に来たときはアフィナージュ、オープンラストで楽しむと言い、今度はみんなで仏光寺通にある

神戸で腕を磨いた友人夫妻が夫唱婦随で切り盛りするレザンへ。

奥様が料理をつくり、旦那様がサービスとデザート担当で、かなり美味しく、以前から友人とワイン会をさせていただいてました。

大好きな季節野菜のソテー、今回初めて頼んで絶品だったのがお肉のパテでした。

そして、熊谷時代にのりちゃんが大好きだったダーレンベルクシラーズヴィオニエをアニョーとあわせていただいたいた時、至福の頂点へ。

デザートのパイナップルノのスフレグラスを3回おかわりしながら、ポールロジェのドゥミセックとリッチに合わせ、また二人が来たときはレザン会しようと誓いレストランを後にしました。

その後、ワインバーのミュゼさんに行き、最後締めくくりに兄貴と慕うB styleの谷田さんのもとへ。

翌日は、カフェヴィオロンでカレーとオムライス、それに絶品のアイスコーヒーとドリップコーヒーをクラシック音楽とマリアージュしながら堪能し、別れの時間となりました。

行ったお店全てが良かったと大変喜んでくれました。

私達には、熊谷にも京都にもずっと支え続けてくれた、素晴らしい友が沢山います。

何にも変えられない財産であり、感謝を忘れずにいたいとあらためて思います。

今回、二人から沢山のパワーをもらいました。

これからまた、いいバーになっていくようにまた少しづつ熟成を重ねていきたいです。

 

 

 

 

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風薫る季節

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咲き誇っていた桜もすっかり青々しい緑に変わりました。
お店の側を流れる白川沿いの桜を同じ場所から撮影したのですが、随分印象が変わるものです。
でも新緑の青さは生命力に満ち溢れていて、この季節にしか感じ得ない息吹きの薫りを味わえます。
こういう季節にはボッサが似合います。
ドアを全開に開け、みずみずしい風をアフィナージュに取り込み、ジョイスを聴きながら今日も掃除をしよう!

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